ヨーロッパの人々が新たな貿易ルートや富を求めて、航路で世界探検を推し進めた大航海時代。この時代に、日本に初めてポルトガル人がやってきた…というのは、学校の教科書でもおなじみの歴史的出来事ですよね。私たち日本人が最初に出会ったヨーロッパの国でもあるポルトガルは、日本と歴史的なつながりがとても深い国でもあるのです。
ポルトガルの歴史第2回は、ポルトガルが栄華を誇った大航海時代についてです。
大航海時代までの背景
ポルトガル王国内のレコンキスタを完了させた国王アフォンソ3世は、1255年に王国の首都をコインブラからリスボンに移しました。
続くディニス1世の治世は、ポルトガル王国が大きく繁栄した時代でもあります。ディニス1世は農業や商業の発展に力を注いだことから「農夫王」とも称され、海外貿易にも積極的でした。
さらに、ポルトガル人の教養を国内で高めるため、1290年にリスボン総合研究所を創設します。このリスボン総合研究所は、その後何度かコインブラ・リスボン間で移転を繰り返し、1537年現在のコインブラ大学になりました。
1319年、ディニス1世はトマールを本拠地とするキリスト騎士団を創設。この騎士団が、のちの大航海時代におけるポルトガル王国の繁栄を大きく下支えすることとなります。
トマールについてもっと詳しく→「テンプル騎士団の町トマールのキリスト教修道院を一挙見せ!」
続くアフォンソ4世の治世にはイスラム教徒との最後の戦い(サラードの戦い)が行われました。そして、アフォンソ4世の息子がペドロとイネスの悲恋物語にも描かれるペドロ王子、のちのペドロ1世です。
ペドロとイネスについてもっと詳しく→「ポルトガルで語り継がれる悲恋物語の主役が眠るアルコバサ修道院」
14世紀に入ると、経済状況の悪化や伝染病の蔓延、隣国カスティーリャ王国との度重なる戦争により、王国内は次第に疲弊していきました。そして、フェルナンド1世が亡くなると、カスティーリャ王国の介入による王位継承問題からポルトガル王国内は内戦状態になってしまいます。
1385年、アヴィス騎士団長のドン・ジョアンがジョアン1世として国王になったものの、カスティーリャ王国は依然ポルトガル王国の併合を試み、その後も侵入を繰り返しました。度重なるカスティーリャ王国からの侵入から、ポルトガル王国の独立を守り抜く象徴となったのがバターリャ近郊を舞台とするアルジュバロッタの戦いです。
バターリャについてもっと詳しく→「中世ポルトガルの勝利と独立の象徴!世界遺産バターリャ修道院」
後にポルトガル王国はイギリスと同盟を結び、基盤を固めました。1411年には、カスティーリャ王国と和平条約を締結し、長年にわたって繰り返された隣国の脅威が薄まります。このことが、大航海時代への原動力のひとつでもありました。
大航海時代のポルトガル
カスティーリャ王国との和平条約を結んだジョアン1世は、海外進出へと舵を切ります。1415年、ジョアン1世によるアフリカ北岸の交易都市・セウタの攻略が、大航海時代の皮切りでした。その後もポルトガルは、西アフリカを経て世界の「発見」へと航海を推し進めることとなるのです。
ポルトガル王国の海外進出は、キリスト教の拡大といった宗教的動機・海外貿易や富の獲得などの商業的動機・付近海域の海賊制圧などの目的がありました。これにイスラム支配時代にもたらされた科学技術や大西洋に面している地理的位置、国内の政治状況が落ち着いたことなど複数の要因が折り重なって実現されたものだったのです。
エンリケ航海王子の時代
大航海時代を語るうえで欠かせない存在が、ジョアン1世の3男であるエンリケ航海王子です。キリスト騎士団の運営者でもあり、その財力を海外遠征の資金に用いたエンリケ航海王子は、積極的にアフリカ沿岸の探検を推し進めました。
実はエンリケ航海王子自身はほとんど航海には出ておらず、実際に航海を行ったのは家臣たちでした。エンリケ航海王子の指揮により、マデイラ諸島、続いてアソーレス諸島が再発見され、ポルトガル人による植民が開始されます。マデイラ諸島ではサトウキビやブドウの栽培、アソーレス諸島では穀物生産や家畜の飼育が盛んになりました。
ジョアン2世の時代
1460年、エンリケ航海王子が没したのちのアフォンソ5世の時代は、海外進出は勢いを弱めます。再び海外進出へと積極的に動き始めたのが、息子のジョアン2世でした。彼は当時、インド付近にあると伝えられる「プレステ・ジョアン」というキリスト教国君主の情報を得るために、インド到達を目指しました。
1488年に、アフリカの西海岸を南下していたバルトロメウ・ディアスが、大陸最南端・喜望峰に到達。これにより、大西洋とインド洋がつながっていること、インドまで航路で行けることが分かりました。
同時期、スペイン王国のバックアップにより西回りでインド到達を目指したコロンブスが、新大陸(アメリカ大陸)を発見します。これを受けて、ポルトガル王国、スペイン王国それぞれが世界の支配可能領域を定めた「トルデシーリャス条約」が締結されました。
インドへの到達を目前にしたところで、ジョアン2世は亡くなりました。没後、ジョアン2世の遺志を受け継いだのがマヌエル1世です。
マヌエル1世の時代
1497年、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる艦隊がベレンから出発し、翌年にインドのカリカットに到達しました。これにより、それまで地中海を舞台としていた胡椒などの香辛料貿易が、大西洋へと移り、ヨーロッパ経済は大きな変化を迎えました。
ヴァスコ・ダ・ガマが帰国したのちに、今度はペドロ・アルヴァレス・カブラルの指揮によるインドへの大艦隊が派遣されることとなります。彼はインドへの航路の途中、ブラジルを発見しました。
時の国王マヌエル1世は、エンリケ航海王子やヴァスコ・ダ・ガマなどの功績を称え、また大航海時代の栄光の象徴としてジェロニモス修道院を建設しました。この建物は、「マヌエル様式」というマヌエル1世の名を由来とする建築様式の代表でもあり、地球儀やロープ、貝殻、異国の植物など海と異国を思わせるモチーフが多いのが特徴です。
ジェロニモス修道院についてもっと詳しく→「大航海時代のロマンここにあり-ジェロニモス修道院とベレンの塔」
アジアへの到達
ポルトガルの世界進出は、遠くアジアまで及びました。16世紀にはマラッカ攻略やマカオがポルトガルの植民地になったほか、1543年には日本の種子島にもポルトガル人が降り立ちました。その後1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。鉄砲や日用品、食べ物など、その後の日本の歴史や文化にも大きく影響を与えることとなります。
大航海時代の結果
ポルトガルやスペインによる、大西洋を舞台とした海外進出と貿易の発展は、それまでヨーロッパ内の商業を牛耳っていたヴェネツィアやジェノバの商人たちにとっては大打撃でした。貿易の中心都市となったリスボンは、ヨーロッパを代表する大都市のひとつとして、大きく繁栄の時代を迎えます。
一方、大航海時代の裏側で、国内では海外進出による人口の減少や農業の衰退が徐々に顕著になっていきます。
若くして国王になったセバスティアン国王は、十字軍の再興を目指しました。しかし、1578年に北アフリカに侵攻した国王は、アルカーセル・キビールの戦いで行方不明になってしまいます。彼は子孫を残さずに亡くなってしまったため、ポルトガル国内では再び王位継承問題が勃発。徐々に海外進出の主役はイギリスやオランダへと移り変わり、ポルトガルは衰退へと進んでいくことになります。
まとめ
ヨーロッパの最西端からアフリカ大陸を越えてインド、アジアへ…未知の航路を進み、次々と新しい発見を続けたポルトガル。私たちがよく知る偉人も次々と出てくるので、ポルトガルの歴史のなかでも特に親しみやすい時期なのではないでしょうか。
次の記事では、ポルトガルの独立が失われた時代と、王政の終わりについてお伝えします!
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