ポルトガルの歴史シリーズ、最後は1974年の革命後から現代までの、およそ50年間の出来事をまとめます。閉鎖的だった独裁政権が終わり、ポルトガルが国際舞台で活躍することも増えたこの時代。私たちの知る、今のポルトガルに近づいてきました。
革命後のポルトガル
1974年のカーネーション革命によって、半世紀近くに渡って続いたポルトガル国内の独裁体制が崩壊しました。これは同時に、およそ500年に渡るポルトガルの植民地帝国の終わりをも意味していました。
革命後のポルトガルの主な変化
• 複数の政党が存在するようになった
• 自由選挙が行われ、誰もが投票できるようになった
• 表現、思想、出版の自由が認められるようになった・・・など
世界各地にあったポルトガルの植民地は、革命を機に次々と独立へと動くこととなります。
この動きにより、それぞれの植民地で仕事をしていた多くのポルトガル人が職を失いました。彼らは一旦ポルトガルに帰国しましたが、国内で仕事が見つからず働くことのできない人が多く発生してしまいます。結果的に、ポルトガル国内からイギリスやフランスなどの国に出稼ぎに行くケースが増えることとなりました。
ポルトガル植民地の独立年表
1822年 ブラジル
1974年 ギニアビザウ
1975年 モザンビーク
サントメ・プリンシペ
カーボベルデ
アンゴラ
1976年 東ティモール(インドネシアによる併合を経て、2002年に独立)
1999年 マカオ(中華人民共和国に返還)
国内政治では、革命直後にスピノラ将軍が臨時大統領に就任し、挙国一致内閣が誕生しました。しかしながら革命後数年間は各派の権力闘争により内政が混乱。クーデターなどの動乱を経て軍政となります。基幹産業は国有化され、農地改革などの改革も推し進められました。
しかしながらその後も権力闘争は収まらず、さらに共産主義への傾倒は国民の不安を増大させ、経済をも悪化させました。
1976年2月、ポルトガルは軍政から民政へと移行し、同年4月には現行の「1976年憲法」が公布されました。1989年には第 2 次憲法改正により社会主義的な側面の強い条文が削除され、経済体制の見直しが図られました。これにより、国営企業の民営化、外国企業の誘致を推し進める方向へと舵を切ることとなります。
ヨーロッパや国際社会の一員へ
ポルトガルは独裁政権下で既にNATO(1949年)・国連(1955年)に加盟を果たしていましたが、革命後はよりヨーロッパ・国際社会の一員としての道を進むこととなります。
1986年、ポルトガルはスペインと一緒に欧州共同体(EC・のちのEU)に加盟。EUの経済支援により、国内の高速道路建設(1991年にリスボン~ポルト間の高速道路が完成)、教育の充実化などが推し進められました。
また、ECへの加盟を機にポルトガルのワイン造りも劇的に変化します。醸造技術や品質の向上に伴い、独裁政権下にはほとんど国内消費をされて国際市場から遠ざかっていたワインが、一気にヨーロッパ各国、そして世界に知れ渡ることとなりました。
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1999年にはユーロが導入され、1910年の共和革命以降使用されていたエスクードは2002年に流通が停止されました。
余談ですが、ユーロの紙幣は、加盟国間で共通のデザイン。一方で硬貨は、片面は共通デザインですが、もう片面は国ごとに異なります。ポルトガルのユーロ硬貨は、中心にポルトガルの最初の王の1144年の印章をモチーフにしたデザインを置き、周囲に7つの城と5つの紋を配したデザインが採用されています。
ヨーロッパの一員としてのつながりを強める一方で、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)が創設されました。この組織は、ポルトガル語圏諸国間の連携を強めることにより、経済関係の強化や人的交流の促進を図ることを目的としています。旧宗主国ポルトガル以外に、ブラジル、アンゴラ、ギニアビサウ、モザンビーク、カーボベルデ、赤道ギニア、サントメ・プリンシペ、東ティモールが加盟しています。
さらに、ポルトガルは国際的イベントの舞台にもなることが増えました。
1998年には、大航海時代におけるヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見から500年を記念して、リスボン万国博覧会が開催されました。
博覧会の開催に合わせて、リスボンの拠点駅のひとつとなるオリエンテ駅やヴァスコ・ダ・ガマ・ショッピングセンターなどが建設されるなど、大規模な開発が行われました。博覧会の跡地は現在も『リスボン国際広場(Parque das Nações)』の名で、人気の観光エリアのひとつとなっています。
さらに2004 年にはヨーロッパ最強国を決めるサッカーのUEFA欧州選手権(Campeonato Europeu de Futebol)がポルトガル国内で開催。これを機に、国内では10つのスタジアムが建設されました。
ポルトガル国内の経済危機
2009年、ギリシャを発端とする欧州債務危機が起こります。当時すでに景気低迷・財政赤字の拡大といった問題を抱えていたポルトガルは、ヨーロッパの中でも特に経済的に脆弱な国、通称「PIIGS」 (ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペイン、アイルランド)に属する国として指定をされてしまうという不名誉な事態となってしまいました。
EU、IMFから金融支援を受けたポルトガルは、消費税・付加価値税の引き上げや公務員の削減、大規模な緊縮政策など、財政再建に向けた取り組みを推し進めます。
2014年にはアイルランド、スペインに次いで、ポルトガルは金融支援から脱却を実現。しかしその後も国内で発生した銀行危機や雇用問題など、依然深刻な状態はしばらく続きました。
特に若者の雇用問題は深刻で、25歳未満の失業率は一時40%近くに上りました。金融支援を脱したのちも、20~30%代が続き、依然深刻な状況は続いています。
一方で、2015年に発足したコスタ首相による政権は緊縮政策の緩和策を講じました。「経済成長」「雇用改善」「格差是正」を軸に据えた新たな政策により、次第に消費回復の兆しが見られ始めてもいます。さらに国内の観光業の発展や外国企業等への投資呼び掛けなど、ポルトガルの景気回復に向けたさまざまな動きが加速しているのが、ここ数年のポルトガルの特徴と言えるでしょう。
現代ポルトガルの政治
ポルトガルの政治は半大統領制を取り、首相と内閣とに力を分散させる制法が取られています。大統領は首相、政府メンバーの任命・解任権などを持ちます。2022年現在の共和国大統領(Presidente de república)はレベロ・デ・ソウザ大統領で、2016年に選ばれて2021年に再選。現在2期にあたります。
現在のポルトガル政党は複数ありますが、1974年以降ずっと主流政党であり続けているのが、社会党=Partido Socialista(PS)と社会民主党=Partido Social-Democrata(PSD)で、選挙では主にこの2政党が競う状況が続いています。直近の2022年1月の選挙では、PSが41.7%の得票率を獲得しました。首相は各政党のトップから選ばれ、通常はこのPSまたはPSDのトップが首相となります。
ポルトガルの主な政党(括弧内は2022年1月選挙後の議席数)
1.Partido Socialista(108)
2.Partido Social-Democrata(79)
3.Bloco de Esquerda (19)
4.Coligação Democrática Unida (12)
5.Centro Democrático Social (5)
6.Pessoas-Animais-Natureza(3)
7.Livre(1)
8.Chega(1)
9.Iniciativa Liberal
ポルトガルは18歳以上が選挙権を持ち、22の選挙区に分かれて投票を行います。日本同様に選挙は日曜に行われ、その前の土曜日は、各政党は何もしてはいけないので、「Dia de reflexão」と呼ばれるのだそう。
まとめ
5回に分けてまとめた「ポルトガルの歴史」シリーズ、いかがでしたか?
ポルトガルと言えば大航海時代、というイメージが強いですが、こうやって歴史を辿ると実にさまざまな出来事を経て今のポルトガルが形作られたことがわかります。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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