古代ローマ帝国時代からイスラムの時代、ポルトガルが繁栄を誇った大航海時代など、さまざまな歴史の舞台となったポルトガル。今回からはポルトガルの歴史を5回に分けてまとめながら、それぞれの時代の面影が感じられる遺跡もあわせてご紹介していきます!
ポルトガル建国前
ポルトガルの国が誕生するのは12世紀のこと。ですが、この土地にはポルトガルの国ができる前からさまざまな民族が入れ替わり住み着いていました。まずはポルトガルが建国される前の出来事について、ざっとおさらいします。
先史時代~8世紀ごろ
ポルトガルやスペインなどの国があるイベリア半島では、旧石器時代後期にはすでに人々が住んでいたことが分かっています。ポルトを流れるドウロ川上流の「コア渓谷」には、1万年から2万年以上前に描かれた岩絵が見つかっています。
コア渓谷についてもっと詳しく→「2万年前に描かれた岩絵を見に行く!ポルトガルの奥地コア渓谷」
その後の新石器時代には、現在のポルトガル各地で人々が定住していたと考えられています。古代からイベリア半島に住んでいた彼らは、総称してイベリア人とも呼ばれます。
紀元前1000年ごろからは、フェニキア人・ギリシャ人・ケルト人が相次いでイベリア半島にやってきます。そして紀元前200年にはイベリア半島はローマの属州となり、街道沿いには拠点都市が建設されました。エヴォラ、コニンブリガなど、ローマ帝国時代に大切な役割を果たした町には今もその名残が見られます。
エヴォラについてもっと詳しく→「町全体がまるで博物館!時代を超えた遺産が共存するエヴォラ歴史地区」
長く続いたローマの時代を変えたのが4世紀から始まるゲルマン民族の大移動に伴う、スエヴィ王国(首都は現在のブラガ)の建国と、それに続く西ゴート王国の建国でした。
イスラムの支配とレコンキスタ
8世紀からは、北アフリカを支配していたイスラムの影響を受けることとなります。711年、イベリア半島とアフリカ大陸の間にあるジブラルタル海峡を渡ったイスラム軍(ムーア人)が西ゴート王国に侵入し、数年で半島のほぼ全域を征服します。イスラムによる支配は15世紀まで続きました。
イスラムがイベリア半島に進出した8世紀に始まったのがレコンキスタです。キリスト教徒によるイスラムからの国土回復運動を目的とするレコキンスタは、イスラムの勢力が及ばなかった半島北部に建国されたアストゥリアス王国に始まり、徐々に南下をしていくことで推し進められました。
11世紀後半には半島内にあったレオン、ナバラ、アラゴン、カスティーリャの4つのキリスト教の王国がそれぞれレコンキスタを進めます。とくに勢力の強かったカスティーリャ王国は、イスラムの拠点都市であったトレドを征服し、テージョ川以北を奪回しました。
13世紀には、イスラムが支配するのは半島南部の都市グラナダのみとなり、1492年にそのグラナダも、アラゴン王国とカスティーリャ王国が統一して誕生したスペイン王国により奪還され、およそ800年間に渡るイスラムの支配が終焉を迎えることとなります。
ポルトガルの建国
ポルトガルの建国は、レコンキスタ後期と並行して実現されました。
トレド奪回を実現した当時のカスティーリャ国王アルフォンソ6世は、イスラムの新たな勢力に対抗すべく、フランスなどのキリスト教国家にも支援を求めました。要請にこたえて半島に渡り、アルフォンソ6世の庶子テレサと結婚、ポルトゥカーレとコインブラ伯領を譲渡されたのがブルゴーニュのアンリ(エンリケ)です。
アンリの死後、半島内は勢力争いに見舞われます。これはアンリの妻テレサ要するガリシアと、アンリとテレサの子供であるアフォンソ・エンリケスを首領とするポルトゥカーレとの争いという、母親と息子の戦いでもありました。
1128年、ポルトゥカーレの自主権を守りたい保守貴族らの支持を得たアフォンソ・エンリケスは、サン・マメーデの戦いでテレサを破ります。以降、アフォンソ・エンリケスはポルトゥカーレ伯領として南に向けてレコンキスタを進めることとなります。それと並行して、アフォンソ・エンリケスはカスティーリャ王国からの分離も目指していました。
1139年、オーリッケの戦いでイスラム勢力に勝利したアフォンソ・エンリケスは、自らを王と名乗るようになります。対イスラムとの戦いのさなかの半島内での勢力争いを憂慮したローマ教皇は、カスティーリャ王アルフォンソ7世とアフォンソ・エンリケスの会見の場を設けます。
ここでアフォンソ・エンリケスはアルフォンソ7世から王の称号を認められ、国王アフォンソ1世となりました。1143年、この「サモラ和平条約」によるカスティーリャ王国からの分離独立が、ポルトガル王国の建国の年とされてます。(ただし、ローマ教皇から正式に国王と認められたのは、後の1179年のことでした)
アフォンソ・エンリケス生誕の地ギマランイスについてもっと詳しく→「ここにポルトガル始まる!世界遺産のギマランイス歴史地区」
建国当時のポルトガルは、現在のポルトやコインブラあたりまでを領土としていました。さらに南へレコンキスタを推し進めたアフォンソ1世は、リスボンやエヴォラなどの都市を次々と攻略し、領土を広げていきます。
アフォンソ1世の死後も、跡を継いだサンショ1世・アフォンソ2世などが続いてレコンキスタを推し進めました。そして1249年、アフォンソ3世がアルガルヴェ地方のファロを攻略したのを最後に、ポルトガル全土を掌握したことでレコンキスタを完了させたのです。
今もポルトガルに残る文化と建築物
およそ2000年前のイベリア半島が古代ローマ帝国の属州だった時代、半島内にはローマ人の生活様式が一気に広まりました。ポルトガル語の元となるラテン語の普及やキリスト教の国教化など、現在のポルトガルにおいても重要な礎を築いた時代ともいえるでしょう。
さらに、800年に渡るイスラムの支配もまた、半島内に大きな影響をもたらしました。イスラムの名残は、現在のポルトガル国内でもさまざまなところ目にすることができます。
例えば、ポルトガル語でarroz(お米)やAlgarve(アルガルヴェ)、リスボンの旧市街Alfama(アルファマ)など、「a」や「al」から始まる言葉の多くはアラビア語を由来としています。
また、お米やオレンジなどの農作物や、大航海時代の推進に欠かせなかった航海術などはイスラムによりもたらされたとされています。ポルトガル中部~南部にかけて、イスラムの築いた建築物がその後キリスト教徒用に改修された例も多く見られます。(シントラのムーアの城壁など)
シントラのムーアの城壁についてもっと詳しく→「世界遺産の町シントラ-風光明媚な景観の中にある個性的な建造物たち」
ポルトガルがヨーロッパの一国でありながら、どこか異国情緒漂う不思議な雰囲気が感じられるのは、イスラム人などのさまざまな民族の文化の融合の結果ともいえるでしょう。
コインブラ旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)
ポルトガル建国後、中西部の町コインブラが首都に選ばれました。ポルトガル初代国王アフォンソ1世は、このコインブラやリスボンに、要塞としての役割も備えた大聖堂を建設します。その後増改築は繰り返されながらも、国内に残る貴重なロマネスク様式の建物です。
コインブラ大聖堂についてもっと詳しく→「まるで映画の世界!世界遺産コインブラ大学・アルタとソフィア」
まとめ
第一回は先史時代から、ポルトガル建国の12世紀までをまとめました。次回はポルトガルが栄華を極めた大航海時代についてお伝えします!
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