20世紀のポルトガルは、王政の終焉と共和政の始まり、さらにはサラザールによる独裁政治など、目まぐるしく社会情勢が変化した時代でした。この記事では、現代ポルトガルの一歩手前の時代を、その出来事を象徴する音楽の紹介と共にまとめます。
王政の終焉
反王政運動が高まりを見せるポルトガル国内で、1910年10月に起こったのが共和革命です。この革命により、12世紀の建国から続く「ポルトガル王国」が終焉を迎えることとなりました。
革命の背景には、ヨーロッパ列強各国とのアフリカでの植民地争いにおける、ポルトガル王政の弱腰な姿勢に対する国民の不満の蓄積がありました。ポルトガルは当初、植民地であるアンゴラとモザンビークをつなぐアフリカを横断する地域一帯の領有を希望したものの、結果的にはイギリスの圧力に屈し、多くの植民地を失ってしまったのです。
王政に対する不満と共に、国内では政治を行う代表者を国民が選挙で決める共和制を実現すべきとの声が高まります。そしてこの動きは、「A portuguesa」という行進曲と共に盛り上がりを増していきました。
1908年2月1日、国王カルロス1世と王太子のルイス・フィリペがリスボンのコメルシオ広場で殺害されるという事件が起こりました。この襲撃から生き残った次男が、国王マヌエル2世として着任。マヌエル2世は体制の立て直しを図るものの、共和政の樹立に向けた動きは静まることはありませんでした。
マヌエル2世着任から2年後の1910年10月3日、リスボンで共和革命が始まります。リスボン近郊の町にあるマフラ修道院にいたマヌエル2世は、近くの港からボートでイギリス領のジブラルタルに亡命し、革命はわずか2日で終結しました。
王政が終結し、共和政の「ポルトガル共和国」が誕生した日(ポルトガルではImplantação da Repúblicaと呼ばれています)となる10月5日は、現在国民の祝日となっています。
共和政への移行
テオフィオ・ブラガ率いる暫定政府のもとで始まった「ポルトガル共和国」。王政時の法律・憲法・政府組織はがらりと変わりました。
現在私たちが知るポルトガル国旗が制定されたのもこの時です。革命前はポルトガル王家の紋章が描かれた青と白を基調としたデザインだったものが、現在の赤と緑を基調とするデザインとなりました。国旗の緑は「希望」を、赤は「力・勇気・流れた血」を表し、旗の中央には大航海時代の象徴でもある天球儀が描かれています。
さらにポルトガル国歌もこの時に改められました。革命前の「Hino da carta」から、 共和革命のテーマ曲でもあった「A portuguesa」になったのです。この国家は今も、オリンピックやサッカーの国際試合などで聞くことができます。
軍事政権へ
1910年の革命後に始まった第一共和政ですが、第一次世界大戦や国内のクーデターなどの勃発から、国内はなかなか安定しませんでした。国民は共和政に失望し、ポルトガルを復活させる強い指導者を求めるようになりました。1926年には軍隊によるクーデターが起き、軍事独裁政権「Ditadura Nacional」が敷かれ第一共和政は崩壊します。
混乱下のポルトガルに現れたのが、アントニオ・サラザールです。コインブラ大学の教授だった彼は、何度もスカウトを受けた後に財務大臣として就任しました。
サラザールはひっ迫していたポルトガルの財政を立て直し、さらに1929年の世界恐慌による影響を最小限に抑えることに成功します。彼は窮地のポルトガルを救った救世主として認められ、多くの国民に支持されることとなりました。
サラザールによる独裁政権
1932年に首相に就任したアントニオ・サラザールは翌年、新憲法を制定し、「エスタド・ノヴォ(Estado Novo=新国家体制)」と呼ばれる長期の独裁政権を構築しました。
エスタド・ノヴォ下のポルトガルでは表現の自由は認められず、政治への反論も許されませんでした。さらに国民に対しては、3つの「F」(Fatima(聖地ファティマ)・Fado(ポルトガルの大衆音楽)・Futebol(サッカー))を愛すべきとし、政治や教養への関心から目を逸らせたのです。
また、サラザールによる政治のキーワードのひとつに「ナショナリズム」が挙げられます。小さな国土しかなく、かつての栄光は程遠い国になってしまったと嘆くポルトガル国民に対して、「Portugal não é um país pequeno」(ポルトガルは小国ではない)とのスローガンを掲げ、ポルトガルの国土と、ポルトガルの植民地各国を合わせた面積を地図上で示したのです。
一方で、独裁者でありながらサラザール個人への崇拝を強いるものではなく、あくまで「社会の安定」のための政策を強固に進めた保守的な側面を持つ独裁政権でもありました。
第二次世界大戦においてポルトガルは中立の立場を取り、戦争の混乱を免れます。また戦後は国連への加盟、NATOへの加盟を果たしました。しかしながら交易関係はポルトガルの植民地との間のものがほとんどであり、国内工業への投資も消極的だったため、経済活動は西欧諸国から大きく遅れを取ってしまいます。
「ナショナリズム」精神のもと、植民地は絶対に手放したくないというサラザールの意思の一方で、当時他のヨーロッパの国々は植民地を手放し始めていました。
この動きに乗り、アンゴラ・モザンビーク・ギニアビザウのポルトガルの植民地の国々でも独立を求めて戦争が始まります。多数のポルトガル人兵士が戦争へ行き、この植民地戦争は1961年~1974年の間、13年も続きました。先行きの見えない戦争に対して、次第にポルトガルの人々は疑問を抱き始めます。
1968年、サラザールは転倒して頭を強打し、執務が不可能な状態となります。そこで後を継いだのがマルセロ・カエターノでした。彼もまた、サラザールの独裁政治を踏襲することを基本的な方針としました。
実は、このマルセロ・カエターノへの政権移行をサラザールは知りませんでした。不自由な身体になりつつも、彼は依然国のトップとして会合を行って支持を出し、周りの人々は偽の新聞をサラザールに渡して報告をしていたのです。事故から2年後の1970年、サラザールは真実を知ることのないまま亡くなりました。
4月25日革命(カーネーション革命)
1974年4月25日、長く続いた独裁政権が終わり、ポルトガル国民が自由を手に入れた出来事が起こります。それが、スピノラ将軍を指導者としたMFAと呼ばれる軍隊によるクーデター、そして政権の転覆でした。国家財政を悪化させ、数多くの命を奪う植民地戦争に疑問を感じ始めた青年将校たちが、独裁体制の打倒と植民地各国の独立を求めてクーデターを起こしたのです。
4月25日の明け方、将校たちはラジオ局を乗っ取り革命の始まりを告げる音楽「Grândola, Vila Morena」を流して国民に知らせました。
革命の知らせと共に、サルゲイロ・マイア大尉率いる戦車の列がリスボンに向けて進行を始めました。リスボンの共和国国家警備隊の本部に逃れていたカエターノはほぼ抵抗することなく投降し、ブラジルに追放されます。ほとんど死者を出すことなく成し遂げた無血革命でした。
革命の起こった4月25日、リスボンの人々は軍隊による進行を見守っていました。そして、革命の成功後、道に出てきた人々は感謝の意を込めて真っ赤なカーネーションを兵士の銃口に挿し始めました。このことから、革命のシンボルにカーネーションが使用され、「カーネーション革命」とも呼ばれることとなったのです。
革命から約50年を経た今でも、4月25日はポルトガルの各地で「自由を祝う日」としてカーネーション片手に行進を行う光景が見られます。
まとめ
今回の記事では、20世紀のポルトガルについてをまとめました。カーネーション革命が起こり、国民が自由を手に入れた4月25日、そして共和革命を経てポルトガル共和国が生まれた10月5日は、ともに現在のポルトガルの国民の祝日となっています。
ポルトガルの歴史、最後は4月25日革命後から現代のポルトガルについてです。
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